幸福論
今月、飼い猫が推定3歳になった
猫の3歳は人間で換算すると27,8歳に相当するらしい
彼女は3年という年月で僕と同級生になり、半年もしないうちに上級生と進級していく
過去の写真を漁っていると生後7か月目の去勢手術後の痛々しい姿を捉えた1枚が出てきた
去勢、雌の猫にとっては子宮摘出手術を行うかどうかについてはかなり悩んだ覚えがある
メリット・デメリット、数多くの術例など調べに調べて考え尽くしたが正解は分からなかった
もし、彼女が僕に対して「おまえも去勢手術をしろ」と言ってきたら受けるつもりでいる
彼女にはそれを言う権利がある
何一つ冗談ではなく、それくらいの覚悟で彼女を病院へ連れて行った
この経験から、悩みというのは答えがない問いに対して逃げる口上を言うのであり、他人に相談してどうなるものでもなく誰のせいにもできない弱さに過ぎないと考えるようになった
だから、悩みという言葉を目にしたり耳にした際、無性にその所在が突き詰めたくなり、納得がいかないときは心がピリつくのだ
本当に考えたのか、代償を支払う覚悟はあるか、悲劇のヒロインを演じるためのアクセサリーとしてファッション感覚で”悩んでいる”と口にしているのではないか、と
椎名林檎は幸福論という曲の中で最後に
”君が其処に生きているという真実だけで 幸福なのです”
と歌っている
曲を否定するつもりはないが、僕は幸福とはもっとエゴなものだと思っている
呼び掛ければ何か反応を見せてほしいし、撫でさせてほしいし、甘えてほしいし、カメラを向ければ画角に収まっていてほしいと思う
これらの対象は自分ではなく相手であるから
命がある・生きているだけで良い、というのも主観であって、本当は人に飼われたくなければ保護されずに次の世を望んでいたのかもしれない
屁理屈をこねればまだまだあるが、詰まるところ子は親を選べない同様ペットは飼い主を選べない
キャットフードや缶詰を与えると喜んでいるような姿を見るたびに思う、本当においしいと思っているのかと
近しい生死で言えば、祖母と老犬が数年のうちに立て続けに亡くなっていった
どちらの死も悲しかったが哀しくはない
表現が難しいが、僕の中には”死んだ”という結果から先に思うことはない
自分ではこの考え方はドライでも薄情でもないと思っている
彼らとは長く付き合い寄り添い沢山のことを学び教えてもらった
僕はアクセサリーや装備アイテム感覚で経験やイベントを語る気も飾る気もない
本当に学ぶべきものはなにか、受け取るべきものなにか
それらを受け取り感謝を伝えられたならばもうそれ以上でもそれ以下でもないのだ
もし、自分がもっと目が良ければ感受性が高ければ国語力があれば・・・などと自身の落ち度を感じたならば、それらの気付きを感謝しながら自己に戻して努力すればよい
ありがとう、は大事な言葉だけど、本当に大事なことは感謝してから自分自身何をするかどう変わるかなのである
そこから目を背けて哀しいだの、忘れられないだのと時間を浪費しているのは、死者への時間の無駄遣いという暴力である
命がある、そこに必ず時間とコストが存在する
それを忘れてはいけないし、それらを構成してくれたのは紛れもなく今日までの流れを作ってくれた彼らなのであるから
”生きている”から幸せであり哀しくもある、と感じられる
去勢手術も彼女に1日も長く出来れば僕よりも長く生きていてほしい、と思うから受けさせた
お互いあと何回6月17日を迎えることができるのかわからないけど
タコより好きなものがあったら教えてね、福ちゃん